名古屋港に二つの死体が沈む。柵から身を乗り出してその様子を見送る男がいた。
男の名前は九南といった。痩身に黒いコートを着るとまるで棒きれのようだった。しかし身なりはきちんとしておりシンプルながらも気品のある雰囲気をまとっている。
九南は先程二人の女性を絞殺してこの海に捨てた。死体がしっかり沈んだのを確認すると柵に背をもたれかけて煙草を吸い始めた。手巻き煙草のあらかじめ巻いてストックしてある一本に火を点けた。
煙草はうまかった。一仕事終えたあとの煙草はうまい。
死体を捨てた現場に長居することもましてや悠々と煙草を吸うことも常識的に考えられないことだ。しかし九南は人を絞殺することも死体を海に捨てることも何回も経験しているのだ。日常だ。だから余裕が生まれる。九南はその生まれた余裕で煙草を吸っていた。九南の余裕が死体を捨てたあとに煙草を吸うという異常なことをさせていた。
もちろん煙草は線香のつもりなどではない。ただ自らにトキシックな快楽を浸したいだけなのだ。春の深夜の海は冷たかろうとは思っている。
煙草の葉が燃え尽きそうになったとき、九南ははたと殺人現場のことを思い出した。今回の殺人現場は自分の店だ。片付けて、明日の夜もバーとして営業できるようにしなければ。
九南は携帯灰皿に煙草を押し付ける。海を背にコートをひるがえして車に乗り込んだ。
三十分ほど車を走らせて名古屋市港区から名古屋市西区まで移動する。九南の店は名古屋市西区の那古野という場所にあった。駐車場に車を停める。
駐車場から九南の店に行くには円頓寺商店街というレトロなアーケード街を通る必要がある。商店街と言っても現在深夜二時なので人通りはない。九南の革靴の音しか聞こえなかった。
商店街を歩いていると目につく看板があった。直径一メートルくらいの大きな赤い丸に「ひつじ」と書かれているのだ。どうやらこの店はラム肉料理店のようである。
「この店、いつできたのでしょうか……」
九南はぼそっと呟くと再び歩き出した。バーテンダーとして広い話題に精通していなければならないので知識量なら負けないつもりだった。しかし、まだまだ知らないことがあるということが妙に九南を落ち込ませた。
「そういえば『ラム』という凄腕の殺し屋がいましたっけ……」
コートのポケットに両手を入れて背中を丸めて思索に耽る。『ラム』は拳銃を武器に人を殺す白髪の殺し屋だった。女の依頼はタダで引き受けるだの、狙った弾は百発百中当たるだの、彼女ができたから足を洗っただの真偽不明な噂をまるで羊毛のようにまとっていた。
「……私には関係ないですがね」
なぜなら九南は殺人鬼だ。巷では『殺人鬼Q』と呼ばれている。金をもらって人を殺す業者とは相容れない存在だ。
商店街の筋の路地を通りしばらくすると自分の店を見つけた。
――この店で人が死んだのか
そう思うとこの春の深夜のこの静けさが不思議に思える。ドアの前に立つ。
「私の秘密に近づく者には死んでもらう」
九南は店の中に消えていった。
◇◇
円頓寺商店街の喫茶店二階に小さな探偵事務所がある。古びた建物の二階で看板も出ていないので入りづらく、一体どのような人物がどのような依頼を受けているのか全くわからなかった。その謎めいた探偵事務所の所長は――円頓寺商店街のセンベロにいた。
「だから本当なんだってえ! アタシ、探偵なんだからあ」
グレーのセーターにモッズコートを着た若い女が顔を赤くして、ビールグラスを持った男に言い放つ。
「こんな頭の若い女が探偵だって?」
男もまた顔が赤い。女は真っ白にブリーチしたいわゆる派手髪でおよそ探偵らしい風貌ではない。男が明らかに馬鹿にした口調で言った。
「だいたいね、平日の昼間から呑んでるってことは仕事ないんでしょ?」
「違うってえ、アタシ酒呑んでるのがデフォルトだから仕事あってもなくても呑むの」
「うわあ、それアル中だよ? 大丈夫?」
「うるせえ! この世の中、絶望が多すぎて正気を保っているほうが辛いんだ。だから酔っ払ってないとじさつしちゃう!」
「そんな酒呑みには仕事こーせんよ。まあせいぜい頑張りゃあよ」
男はセンベロにお金を払いそそくさと店を出た。
「んもう! みんなアタシを馬鹿にしやがって」
女は――羊はビールにまた口をつけた。
「アタシ本当に探偵やっているのに」
ビールグラス片手に悲しそうにつぶやいた。
するとその時、センベロの入り口に黒髪の女が現れた。居酒屋には似つかわしくない白と黒を基調としたゴシックなワンピースを着ており髪をツインテールにしている。
「見つけた……!」
ツインテールの女はそう呟くと厚底ブーツでヨウへツカツカと歩み寄る。
「芽理衣……なんかあった?」
ヨウはひらひらと手を振る。メリーと呼ばれた女は目を三角にした。
「なんかあった、じゃないでしょ! なに平日の昼間から呑んでいるのよ! 今から依頼があったらどうするのよ!」
「でもこの世の中、絶望が多すぎ……」
「あ、それ何百回も聞いてるわ」
メリーのあまりにも塩な対応に尻込みするヨウ。
メリーはヨウの助手だった。そうであるからヨウの常套句は耳にタコができるほど聞いている。今回は事務所から脱走した探偵・ヨウを連れ戻しに来た。
「とにかく帰るわよ! 依頼人が来たら困るし……ヨウちゃんの体が心配よ」
「う…………」
恋人が自分のことを心配すると二の句が継げない。
「お会計してくる」
黒スキニーの尻ポケットからくたびれた長財布を取り出した。酒が呑めなくなるのは不本意だけど心配してくれるのは嬉しい。ちょっとこそばゆい気持ちだ。
――けどそーゆー日常も今だけなんだ。だから今を大切にするしかないんだ
そう心の中で唱えながらクシャクシャの千円札を女将さんに出す。
「おまたせメリー!」
お会計を済ませたヨウはメリーと円頓寺商店街のアーケードを歩いた。
ヨウたちの探偵事務所に着く。ドアを開けるとセンターテーブルを挟むように二つの二人掛けソファがあり、あとは書類を入れるカラーボックスが壁沿いに三個ほど置いてある。部屋には一コンロの小さなキッチンが付いていた。
「事務所にいてもなにもすることないがや」
ドサッとソファに腰掛けたヨウは頬杖をついて窓から商店街を見下ろす。商店街は相変わらず人通りが少ない。
「でも果報は寝て待てって言うし、待つことも仕事よ」
やかんでお湯を沸かしているメリーが言った。シンク下からコーヒーと紅茶と緑茶を取り出す。
「コーヒーと紅茶と緑茶、どれがいい?」
「熱燗」
「……怒るわよ」
「コーヒーでお願いします」
メリーの怒りに怯えながら再び窓の景色に視線を落とし思索に耽る。
――カホーハネテマテ、バカバカしい。コトワザみたいだし根拠あるんかよ
――なんか都市伝説と同じくらい信憑性無い感じじゃない?
――それこそ殺人鬼Qみたいに
まもなくコーヒーが運ばれた。
「さんきゅ」
ヨウはカップに口をつけた。メリーはセンターテーブルを挟んでヨウと向かい合わせになるように座る。メリーのカップには紅茶が入っている。ヨウは何気なく尋ねた。
「ねえ、殺人鬼Qって知っとる?」
「なによ、急に」
マドラーで砂糖を混ぜていた手を止めてメリーは顔を上げた。ヨウは続ける。
「名古屋市に出没する連続殺人鬼。なんか都市伝説っぽく言われてるよね――『その男のことを調べてしまったら絶対に殺される』と言われているバーテンダーがいる」
「それが殺人鬼Qなの?」
「なにあんた、知らない感じ?」
「うん、ヨウちゃんみたいにツイッターとユーチューブの住民じゃないから」
「そうですねあなたはインスタグラムとティックトックでしたね」
ヨウは肩を落とす。なぜ自分の恋人は自分と全く違うのに一緒にいるのだろうか。そういう瞬間が定期的に発生するのが自分たちだった。気を取り直す。
「メリーはそう言うけど殺人鬼Qは全国的にけっこう騒がれてるんだ。なんせ殺し方が毎回一緒、絞殺なんだ。手でぐいっとね」
カップを両手で囲むヨウ。
「でもそれを短時間でバレずに行えるのは人並み外れた怪力の持ち主。ある現場に落ちていたワインボトルの破片でバーで働いている人なんじゃないかって推測は出てるから例の都市伝説ができたわけ」
「『調べたら殺されるバーテンダー』って?」
「うん」
ヨウは再びコーヒーに口をつける。飲み干して再び口を開く。
「バズりたいユーチューバーとか肝試ししたいカップルとかこぞって調べたけど全員もう生きてないらしいよ」
「……それはもう都市伝説じゃなくて本当の伝説じゃないの?」
紅茶を飲み終えてヨウを見据えるメリー。ヨウは神妙な顔つきで相槌を打つ。
「だね、模倣犯も出てきてちょっとしたブームみたい」
「なんか小説みたいね」
「小説だったらどんなによかったか」
ヨウはカップをソーサーに置いて、もう一度窓の外を見た。
名古屋駅から徒歩二十分ほどのこの場所は駅周辺の喧騒とは無縁の静かな場所だった。町並み保存地区として指定されているこの場所は、大きなお寺と神社と子守地蔵尊に守られゆっくりとときが流れる。日々せかせかしていてもこの那古野に来れば気持ちが穏やかになる気がした。
ヨウの口からあくびが漏れる。
「コーヒー飲んだばかりじゃない。しっかりしてよ」
「でもだって今日もきっと依頼人ゼロだよ。こんなに穏やかな町じゃ事件なんて起こりゃせんわあ」
ヨウはするりと立ち上がり台所のすみの一ドア冷蔵庫へ向かった。冷蔵庫を開ける。そしてなめらかな手付きで缶ビールを手にとった。
「なにしてんのよ!」
メリーはそれを見逃さなかった。全力で走り冷蔵庫の前でかがむヨウの真後ろに立つ。ヨウは立ち上がりクルッとメリーの正面に向き宣言した。
「今日はもう依頼人来ない! 今日はもう働かない! 労働しない!」
「ちょっと、さすがに今月あと一件はこなさないとライフラインと家賃は払えてもお酒呑めないわよ!」
「いや今日だけ! 今日だけはお酒呑みたい! いいでしょ? ねえ! 明日から本気出すからあ!」
「ダメ!」
メリーは缶ビールを取り上げようとヨウの手の中に掴みかかった。缶ビールの上と下をメリーが持ち、側面をヨウが持つかたちとなった。ヨウがわめく。
「なにすんだよ! 離してよお!」
「一ヶ月お酒呑めなくなるか、今日働くか、どっちがいいの?」
「どっちも嫌! 今は今しかないの! 今お酒呑むの!」
「この! わからずや!」
メリーはありったけ力で缶ビールを引っ張った。殺人鬼Qほどの怪力は出せなくともヨウには勝てる。そう思ったがヨウは素早くその引力を感知し抵抗した。
「お酒のことになると本気出すんだから! 普段からこれぐらいしっかりしてよ」
「私はしっかりなんかしたくないの! 今はちょっと……しっかりしないようにしっかりしてる」
「うるせえ!」
メリーは今度は缶を縦へ横へブンブン動かし始めた。当然、同じ缶を握っているヨウの腕もブンブン動くのであった。
「今日はお酒ダメ!」「返してよ!」「ダメ!」「離してよ!」「ダメ!」「今日だけは許して!」「ダメったらダメ!」「大須で服買ってあげるから!」「大須よりパッセがいい!」
缶ビールを取り合い腕が前へ後ろへ上へ下へ動く。戦いだった。缶ビールと生活費を賭けた戦いだった。二人とも夢中だった。
「あの……」
消え入りそうな声が二人を呼ぶ。思わずフリーズした。いつの間にか事務所のドアは開いておりそこには、ちょこんと女の人が立っていた。眼鏡をかけひっつめ頭の地味な女が二人を心配そうに見ている。
「依頼をしに来たんですが……」
またも控えめな声量で言った。二人は見ず知らずの女性に、しかも依頼人に缶ビールを取り合って壮絶なバトルをしているところを見られてしまい非常に気まずい気持ちでいた。
「い、いらっしゃいませ」
メリーが引きつった笑みで応答するのが限界だった。
缶ビールは冷蔵庫に戻った。
センターテーブルを挟んで依頼人とヨウが座った。ヨウの隣にメリーも座っている。
依頼人は思いつめたような、困ったような表情をしていた。その表情がデフォルトなのかと思うくらい憂い顔が似合う女性だった。
「まずあんたの名前は?」
ヨウはうつむいている依頼人の顔を覗き込むようにして尋ねた。依頼人は肩をピクリと動かして答える。
「マキ……」
「マキさんね。今日は何の依頼?」
マキの瞳孔が震え始める。
――目を合わせることに慣れてないのかな
そう思ったヨウは目を覗き込むのをやめた。マキのつむじが見える。
「この人を、調べてほしくて……」
蚊の鳴くような声で言って一枚の写真を取り出した。スマートフォンからコンビニで印刷したようなL判のカラー写真だった。
ヨウは写真をまじまじと眺める。そこには男性が写っていた。撮影された場所はオーセンティックバーのようだ。柔らかな照明に照らされたボトルたち。バーのカウンター越しに黒髪のバーテンダーが感じよく微笑んでいた。
「この人を調べるの? バーテンダー調べるだけの仕事だね、楽勝!」
ヨウは写真を持って立ち上がって飛び跳ねた。しかしメリーは対象的に青ざめている。
「どしたの? メリー」
「あんた、わからないの?」
声を震わせ言う。
「そいつ、殺人鬼Qじゃない?」
マキの肩がピクンと跳ねて明らかに目が泳いだ。
「まさか、そんな偶然ある?」
写真をつまんでピラピラさせるヨウ。無言でうつむくメリーとマキ。
「え? マジな感じ?」
残念ながらこの楽天主義には状況がわかっていないようだ。
「ねえ、引き受けるのやめようよ」
泣きそうな声で言ったのはメリーだった。
「そいつのこと調べたら殺されちゃうかもしれないんだよ。私、ヨウちゃんが死ぬのやだよ」
目に涙を浮かべヨウを見上げる。本気でヨウを心配しているのだ。
「大丈夫。アタシ、死なないから!」
「ま、またそんなこと言って! 私は本気で――」
「あんたが愛したアタシを信じてよ」
ヨウはソファに座り直しモッズコートの襟元を正した。マキに向き合う。
「この依頼、ぜひやらせてください。この男を調べてほしい理由は聴かないであげる。アタシを頼ったってことは、そういうことだよね」
マキが薄く「え……」と言った。何に対する「え」なのかは不明だが安堵の感情と疑問の感情が込められていた。
「どうせこの男も女をいじめるやつに違いない。アタシ昔ね、そういう男を懲らしめる仕事してたんだ」
写真をセンターテーブルに置き男の顔を指先でコツコツ叩きながらヨウは言う。
「いやがらせされて困っているんだよね? バーテンダーだろうが怪力殺人鬼だろうが受けて立つ!」
「あ、ありがとうございます……!」
マキは感謝の気持ちで思わず目をぎゅっとつむり頭を下げた。
お金と大量のコーヒー豆を献上してマキは去っていった。コーヒー豆はマキがパートで勤めている喫茶店のものだという。
メリーはヨウを信じたい気持ちと、それでも心配な気持ちがないまぜで苦しい表情をしていた。
「大丈夫だって」
ヨウは涙目のメリーを見ながら言った。夕日の差す窓辺のソファでメリーを膝枕して頭を撫でる。
「アタシしか勝たんでしょ」
「勝たんはそういうときに使わないよ」
「でも怪力殺人鬼には勝つから」
ヨウはセンターテーブルに置かれた写真を見やる。人の良さそうな男だが笑顔から滲み出る狡猾な演技臭が気に食わなかった。
「ヨウちゃん、念の為に昔の道具、整備しといたほうがいいよ」
メリーが遠慮がちに言った。ヨウは「なるほど名案」という表情をした。
「アタシの腕はサビちゃいないが道具は手入れしないとな……ありがと、メリーは頭いいなあ」
そう言ってメリーのほっぺを両手ではさんだ。
「なにすんのよ」
「お、いつもの威勢が戻ってきた」
「一体誰のせいで落ち込んでいると思っているの!」
ガバッと起き上がりヨウに向き合うメリー。
「私はねえ! あんたが酒クズでガサツでチャランポランで楽天主義で……大好きだから心配してんの」
思いの丈をぶつけるとメリーはヨウの胸に飛び込み大泣きした。この依頼の過酷さを物語っているようだった。ヨウは優しく包容すると言った。
「死ねない理由を数えて無理矢理『生』を繋いでいたときにあんたに出会って、今生きてるんだ。あんたがいるのに今更死ねないよ」
そして天井を仰ぎ見た。
――それから、アタシは死を恐れることもないよ。昔あんな仕事やってたのにそんなこと言ったら笑われちゃうからね
――覚悟しろよ殺人鬼Q!
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